千代田区・神田公園地区連合町会のサイトです。

多町二丁目町会長  田畑 秀二 氏(たばた しゅうじ)平成30年6月就任

多町二丁目町会の町会長の田畑秀二さんをご紹介いたします。

多町二丁目町会は神田公園地区の東側に位置し、神田警察通りから多町大通りを挟んで北に伸びる町会です。

実は前回ご紹介の中曽根会長のインタビューの際に、田畑会長にも併せてインタビューを受けていただいておりました。田畑会長をご存知の方にとっては“言わずもがな”かもしれませんが、町の歴史やお祭りに非常に詳しく、行動力のある方です。色々なエピソードをお持ちの方ですが、その一端を今回のインタビューでお話しいただきました。
(インタビュー実施日:令和元年12月23日)



ではまず会長のご趣味について伺います

 まずは海釣りですね。先輩が浦賀にクルーザーを持っていて、そこから船を出して千葉県の方へ釣りに行きます。今の時期だとカワハギ、夏場だとシロギスとかカマダイだったり、色々ですね。シーズンによって自分の釣りたいもの、食べたいもの、釣りやすいものでやってます。
 本当は毎週行きたいけど、海の状況とか用事もあるので年間で20〜30回くらいですかね。一番行ったときは年間で58日行きましたよ。
 釣った魚は家内が捌いてくれます。捌き方を教えたのは私だけど、今では家内の方が上手になりました。

 あとは、趣味というか、お祭り関係ですね。江都天下祭研究会(えどてんかまつりけんきゅうかい)って言うんですが、私が30代の時に作った会で、もう20年以上やってます。
 この“江都”という字なんですけど、江戸時代に川越にあった『祭礼番付』に西方と東方に分けてお祭りが番付されているんですね。西方は京都の祇園祭とか大阪の天満祭などが書いてあるんですけど、東方は最初が山王御祭、次に神田御祭、一つ空いて赤坂氷川御祭とこの3つが最上段に書かれていて、この3つだけ『江都』っていう字が使われているんです。他の江戸のお祭りは普通の「江戸」が使われているんですけどね。「じゃあこれ(江都)を使おう」って言ってこの字を使っているんです(笑)
 言い出しっぺなので会長にされてますけど、私と万世橋町会の町会長の塚田さんと、もう亡くなりましたが旭町の兼古さんという方と同い年の3人でね、深川の神輿がずらっと載っている冊子を見て、「こういうのを神田でも作れないか」というところから始まった会なんですよ。
 で、神田明神に掛け合ったら作ってもいいということだったので、じゃあそういう本を作るためには温故知新、色んな形でお祭りを勉強したり見学したりして、それで分かったことを実際に今の神田祭に照らし合わせて確認してみたりですね。あと、今後のお祭りのために何か参考になることはないかと色んな人を講師に招いて勉強会もしたんですよね。ただ、勉強会は良かったんですけど、思ったような方向とは違う感じの会になっちゃって、勉強会を一旦ストップして、地方とか神田以外のお祭りを見に行く会になりました。単なるほぼほぼ飲み会になっちゃったわけです。それがいまだに続いてますけど(笑)

Q.冊子は作れたんですか?
 冊子じゃなくて、本物の本を作りました。最初が「明神さまの氏子とお神輿」という本で、2冊目が「400年目の江戸祭禮」という本です。ハードカバーの本で、錦町三丁目の前田町会長の武蔵野書院で作ってもらったんですよ。
 「明神さまの〜」の原稿は最初自分で書いてたんですけど、途中で断念して同じ多町二丁目町会の後藤さんにお願いしました。いきなりご自宅にお邪魔して「こういうのやり始めたんだけど、お願いできませんか」と。神田の歴史に詳しくて文章も上手な人といえば後藤さんしか考えつかなかったので、引き受けてもらえてホッとしましたね。
 他にも当時の東神田に山瀬さんという方がいて、古いものを勉強していらっしゃったのでその資料をお借りしたり、日本橋の氏子の人たちも巻き込んで町会も何も関係ないグループでした。とにかく色んな人たちがいて、なんだかんだってやってるうちに出来上がりましたね。
 「明神さまの〜」は2000冊作って、ほぼほぼ1か月半で売り切りました。一応、三省堂に平積みで置いてあったっていう記録が残ってるみたいですよ。



小さい時はどんなお子さんでしたか?

 男3人兄弟の真ん中で、特に目立つでもなく、一般的な子どもだったと思います。神田幼稚園から神田小学校へ行って、中学校は一橋でした。家が商売(印刷用の紙の卸し)をやってて邪魔だったのか、普通よりも半年早く幼稚園に預けられました。
 家の商売の調子が良かった時に、あの頃高かったお寿司とか天丼とかいっぱい食べさせてもらったことは覚えてますけど、特に思い出と言われるとあんまり覚えてないですね。お祭りも参加はしてましたけど、今のように熱心というわけではありませんでした。

Q.お祭りを好きになったきっかけは?
 2つあると思うんですけど、1つ目は仲間たちと色んな所に神輿を担ぎに行って、神輿を担ぐことが楽しくなったことです。
 そしてもう1つは、江戸神社(神田明神の境内にある神社)が昔は多町二丁目にあったんじゃないかと思って(実際はなかった)地元の人たちに聞き歩いたことがあったんですけど、その時に色んな人と知り合って、お祭りが大好きな人とか、歴史にすごく詳しい人に色んな話を教えてもらって「こういうの面白いなぁ」と思ったことですね。
 うちの町会の菅納さんのお母さんが市場(※)の問屋の娘さんだったんですけど、大正10年の時の江戸天王祭の本物の写真を「あんたみたいな人にあげる」って何枚かくれて、それを見てみんなで盛り上がったりして、そういう人たちがいて「ああ楽しい」とか「多町って面白いんだ」って思ってたら多町だけじゃなくてもっと色んなことを知りたくなったんですね。

※現在の多町二丁目エリアは、江戸時代の頃より青果市場として栄えており、昭和3年に秋葉原へ移転するまでの長きわたって幕府や町の人の台所をあずかる市場として賑わっていました。詳しくは多町二丁目町会の歴史のページをご覧ください。

町会のご自慢は?

 まずは神田祭の氏子町会の中で一番お神輿が大きいことですね。ちょっと話が複雑ですが…、関東大震災後の復興整備で、それまで多町一丁目だった場所が多町二丁目と合わさって「多町二丁目」になって、それまで堅大工町だった場所と新石町だった場所の一部が合わさって「多町一丁目」になったんです。その時に旧多町一丁目が持っていたお神輿を国立博物館に寄贈してるんですけど、私が20歳なる位まではお祭りの度に借りてきて担いでたんですよね。そのお神輿の台座が3尺あって、新しく多町二丁目でお神輿を作ろうという時に“同じ大きさの台座にしよう”ということになって、今のお神輿を作ったんです。うちの神輿蔵の隣にある馬喰町二丁目町会のお神輿も同じく3尺あるので、うちだけが一番というわけではないけれども、二番目というわけでもないですからね。
 次が元日の賀詞交歓会ですね。元日に町会員60〜70人くらいで集まって神田明神へ初詣に行くんですよ。集合してから、町会長挨拶、鳶頭にご祝儀、乾杯、万歳三唱と手締めをしてから明神さんへ向かいます。いつからどういう理由で万歳三唱をしているのかは分かりませんけど、長年の慣習なので大事にしてます(笑)神田明神では毎年佐久二平川町会の方達と一緒に昇殿参拝をしていて、あちらも人数が多くて80人くらいでいらっしゃるので総勢150人くらいになります。ただ、最近は神田明神も参拝者が増えて混雑してきたので、危険になるといけないと思って日にちをずらすことを検討しています。
 最後はやはり神田市場ですね。もともとは市場があって非常に栄えた場所だったんですから。今はもうだいぶなくなっちゃいましたけど、私が子どもの頃なんかはまだ市場の気概っていうのがなんとなく残っていましたよね。

コミュニティ活性化のための取り組みについて

 町内の世帯数は約600世帯と多いので、町会活動に興味を持ってくれる人もいると思っています。なので、そのような人たちに対してどのようにアクションを起こしてコミュニケーションを取っていったら良いかということを今模索していて、東京都が実施しているプロボノプロジェクトという事業に参加して勉強やシミュレーションをしています。
 今までもお祭りで神酒所を作った時に「ここで飲み会をやります、誰でも参加できます」っていうポスティングとか何回もしたりしたんですけど、あまり上手くいかなかったんですね。でもやれる範囲でやっておかないと、後になって「これやらなかった、あれやっておけば良かった」って言ってもしょうがないしね…。
 まずはこれからも希望を持って町会の輪を広げる努力をしてきたいと思います。現にうちの町会の青年部長は神田が地元ではないですし、町会の役員の中にも4〜5人そういった人たちがいます。しかも青年部長の方は消防団の活動まで一生懸命やってくれてます。あそこまでやってくれる人っていうのはなかなかいないですけどね。
 出来れば下の世代(20〜30代)が増えてくれると嬉しいですけど、仕事に家庭に忙しい年代ですからね…。でも子ども同士、親同士の繋がりから町会にっていう流れも期待できますからそういった可能性にも期待していきたいですね。



町会活動で印象的だったことはありますか?

 縁日を作った時は面白かったですね。
 私が若かった頃は、この辺(警察通り北側)の縁日は司町二丁目町会と神田鍛冶三会町会がそれぞれの町会で別個に縁日を開催してたんですけど、多町二丁目ではやってなくて縁日には遊びに行かせてもらっていたという状態でした。
 それで私が青年部長だった時に「うちでもやりたい」と当時の町会長に掛け合ったんです。2時間から3時間くらいかけて思いを伝えたんですけど、「大人も子どもも減っちゃったし、お金もないから出来ないよ」と断られて。でもどうしてもあきらめられなくて、「なんとかして、どうしたってやるぞ」と、それから同じ事をずーっと繰り返しましたね。縁日に関する色んなネタを考えては町会長を訪ねて行って「ダメだよ」と断れられる。というのをおそらく10回くらいかな、やりましたね。
 それで青年部長を交代する事を決めた頃に町会長から呼び出されて「文化企画部って知ってるかい?」って聞かれて「今はやってないですよね。でも昔縁日やってましたよね?…って縁日やらせてくれるんですか!?」って言ったら「それは町会で決める事だ」って(笑)結局いいよとは言ってくれなかった。
 でも次の役員会で役員を改選して文化企画部長になって、「縁日やりたい!」って言ったらみんな「やれば」って感じですごい拍子抜けしましたね(笑)
 しかしそこまででとにかくすごいエネルギーを使いました。最初に町会長にお願いしに行ってから実現するまで2年くらいかかりましたし、その前の「縁日やりたいな」って思った時から千代田区中の縁日ほとんどにお邪魔して、どうやって開催しているのか、どうやって人を集めているのかを色んな人に聞いたりしてましたから。あの時はとにかく必死でしたね。
 でも本を作るときもそうでしたけど、「絶対やるんだ!」って思ってやってると出来るんですね。そして自分だけでやるんじゃなく、周りの人も巻き込んで楽しくやることですね。自分もやりたいけど、みんなもやりたいよねって。勝手に言い続けていると周りの人達も一緒になって頑張ってくれるんですね。

神田の若い人たちに一言お願いします

 楽しんでいろんな活動に取り組んでもらえたらなって思います。楽しそうなところ、明るいところ、あったかいところっていうのは人が集まってきますから。
 そして自分たちがどれだけ楽しめるか、楽しい事をするために何が出来るのかを考えて欲しいですね。そうするときっと面白いことが出来ると思います。

 上部へ