千代田区・神田公園地区連合町会のサイトです。

司一町会長  谷合 誠司 氏(たにあい せいじ)平成14年5月〜平成23年5月

立冬も間近な薄曇の11月6日(火)、
第12回目の町会長いんたびゅーのお客様に
司一町会の谷合 誠司 会長をお招きしました。
お約束の時間より10分以上早くお見えになった谷合会長は、
ピント背筋を伸ばして座られ、インタビュアーの竹内さんもやや緊張気味で、
そろそろとインタビューが始まりました。

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早速ですが、司一町会さんの自慢、これだけは、と言うものをお聞かせください。

 町会として守っていることは時間厳守ですね。昭和28年に町会が再発足したときに、初代の町会長黒川四郎さん(初代神田公園地区連合町会会長)が、その頃、町会の会合も30分位遅れて開会されるのが普通でしたが、定刻に開会する事を続けた事で時間厳守がスタートしました。現在も定刻の10分前で普通、5分前だと遅い位です。連合町会創立30周年記念誌にも書いてありますが、司一町会の伝統になっています。こうした良いところは今後も継承していきたいと思っています。
 また、毎年敬老の日に町会から75歳以上の方にお祝い金を差し上げるのですが、今年は60名でした。その中のお一人から、これだけ老人が多いのは町会の雰囲気が良いので住みやすいからだと言われて嬉しかったです。

 それから、会員の和を大切にして、人の嫌がる事を無くして、町会行事、神田祭等、皆様の総意で決定しているということですね。歴代の町会長さんは連合町会長として、13代黒川英一さん、18代吉澤榮一さん、24代鹿島吉五郎さんと実行力のある方ばかりでしたので、私たち役員は会長の指示のまま町内行事を行ってきましたので、一部の役員さんには不満があったのも事実です。
 私は、平成14年2月に鹿島町会長がお亡くなりになった後、町会長になり現在5年経ちましたが歴代会長のように全てはできませんので、皆さんに分担してもらっています。従来からの町会としての「しきたり」「やり方」も、一つひとつ役員会に諮り決定しています。今はこうした方法が定着してきました。連合町会の定例理事会の後は、なるべく早く総務会を開き、区からの書類は各担当の事業部長にお願いし、事業部長さんは、責任と権限を持って提案し、それを役員会で承認して進めています。

 昭和48年に2代目の青年部長になった藤井誠二さん(後に副会長)の時には部員が40名位で町会行事の中心になっていましたが、40年代の中頃に鎌倉町の有志の方が子どものため夏休みの縁日を始めたところ評判が良く、司一町会も49年から始めました。夏休みの最初の土曜日が司一町会、鎌倉町会さんが最終の土曜日にと、2回行っていましたが、内神田の他の三町会から、内神田五町会で一緒に行おうという話があり、当時の青年部長で決定し、今年で20周年になりました。(写真は司一町会の縁日、右端が谷合会長)現在は千代田小学校、幼稚園のお子さんと地元の子どもたちが大勢で楽しく参加し、大人の方にも喜んでいただいています。

現在、町のことで気になることはありますか。町会長になって良かったことは何ですか。

 当時の青年部員が順々に役員になり、事業部長、副会長として町会運営に当たっていますので、現在の入山青年部長さんまでは今まで通り町会行事は大丈夫だと思いますが、青年部員が少ないことが心配ではあります。また、次の世代の人たちがどうしたら町会に参加し、活動してもらえるかということも考えます。
 私たちが青年部員の時には、町会行事を手伝って汗を流していれば神田祭の時に責任のある役目にしていただき、一回一回真面目に務めれば役員に推薦されて一人前になりました。今の若い人たちにとって町会役員になることが魅力かどうかわかりませんが、唯一、青年部長になると神田祭の時、木頭になることができます。今は近隣町会さんも同じですが、青年部長が木頭になったのは司一町会が最初です。藤井さん、坂井さん、中澤さん、大関さん、入山さんと代々の青年部長の努力で司一町会のお祭は楽しいと、参加者が毎回増えています。

 町会長になって良かったことは、会員の代表としての責任の重さで自分自身が成長できたかなということですね。自分が表に出て話したことは町会全体の総意になりますから、自ずと姿勢正しく行動しますね。事業部長さん、副会長さんも町会の代表として外に出る時は同じですね。皆さんしっかりやってくれています。
 以前は、目上の方には逆らえない町会と思われていたようですが、今は払拭されたのではないでしょうか。現在の町会内は意思統一ができていますよ。せっかくのこの良い形を次の世代へ引き継ぎたいですね。(写真は5月の神田祭で 中央が谷合会長)

会長ご自身のことを伺います。小さい頃はどんなお子さんだったのですか。趣味は何でしょう。

 私は明治の末に祖父が創業した谷合製本所の三代目として昭和12年3月に生まれました。小さいときの事はあまり覚えていませんが、体が大きいので「オーぼう」「オーちゃん」呼ばれましたが、その呼び方は、今では町会の藤田さんくらいしか知らないと思いますよ。その後は、「セーちゃん」「セー坊」、今は「谷合君」「谷合さん」ですね。昭和20年2月25日の空襲で焼け出されて、母の実家のある三島に疎開し、終戦後の9月に神田に帰ってきた時は小学校の3年生でしたが、当時、神田駅前にはヤミ市が立ち、子ども心にも力が支配する世の中を感じたものです。
 昭和34年に父が亡くなった時、製本の仕事をまだ良く覚えていなかったのですが、祖父の縁で大澤さんのお父さんに教えていただき、お得意さんのご理解もいただいて家業を続けることができました。昭和61年に工場を板橋に移転し、平成14年7月に私の代で終わりました。

 趣味は、その時に流行したものを友人に誘われて一応何でもやりました。山登りでは、家には丹沢に行くと言って谷川岳に行き、登頂後の下山ルートを間違えてヒヤヒヤしたこともありましたし、スキーは昭和34年の正月に燕温泉スキー場で雪崩にあって死に損なってやめました。
 小唄は歴代会長始め役員の皆さんが清元、小唄が上手で、特に今年百歳でお元気な相談役の松本寛さんの唄が素晴らしく、常に宴席を盛り上げてくれます。
 私も、当時の黒川会長から小唄の一つも唄えと言われ、春日とよ勇佐世師匠に入門しました。正月は「おひきぞめ」、夏は「ゆかた会」、2年に一回の本会があり、少なくとも3曲を上げなければいけないのですが、生来の稽古嫌いで覚えが悪く、同じ唄を歌ってごまかしました。
勇佐世師匠に4名、他の師匠に習う人も4名ほどいましたので、小唄の「神田祭」は同年代の役員さんは全員唄えます。

 ゴルフは、鎌倉町の市川さんに一泊二日で夜は宴会ということで宴会要員として参加したのが最初です。練習場に通い教えていただきましたが、上手になろうと言うより皆様と楽しい一日にしようと考えていましたので、成績は100〜110で、たまに100を切れば最高でした。先生の市川さんの持論で、ルール、マナー、エチケットを守る事は当然で、同伴者に「貴方とまたご一緒にプレーを」と言われるのが一番で“『ナイスパートナー』たれ”と教わりました。
 全ての趣味が中途半端ですが、唯一続けているのは夕食の時ビールを飲むことです。昔、トリスバーが30円、40円の時、ビールは120円しましたので、何時かはビールを飲もうと思ったことが原因だと思います。また、食事の献立には必ず豆腐をつけています。毎日豆腐を食べ続けたおかげで今、健康でいられるのではと思っています。

ありがとうございました。インタビューの最後の一言の中で「大好き神田」についてもお聞きしました。

 今まで多勢の方にお世話になり現在がありますので、少しでも地域の為に活動していきたいと思っています。

 「大好き神田」については、ホームページ担当の川本さん、中澤さんの意見を聞いて町会に諮り、お二人の考える方向で町会全体の意思にしていきたいと思っています。


♪ インタビューを終えて
 実直なお人柄で、インタビューにも“きびきび”とお答えくださった谷合会長さん。ご自身のことをお尋ねしたときは、少し照れくさそうで、その笑顔がとても印象的でした。ありがとうございました。
竹内

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