 多町市場時代の商家の風情を残す「松本家」 |
神田青物市場は別名、多町市場とも言われた。 明暦大火(1657)の前には、青物問屋の数は八一軒にも増えたという。大火後に連雀町、佐柄木町の問屋は多町へ合併し多町と永富町の問屋が商いを続けたが多町の問屋集団が次第に盛況となり神田多町市場と呼ばれるようになった。起立時の多町の範囲(一丁目、二丁目)は厳密ではないが、おおよそ現在の多町二丁目全体の範囲である。現在の一八通りの北側(靖国通り側)が市場の二丁目。南側(神田駅側)が一丁目であった。多町一、二丁目の起立時の江戸古町の形は昭和8年の住居表示変更まで約330年続いた。 江戸市中の市場の中でも多町を中心とする神田市場が群を抜いて発展したのは徳川家御用達、江戸幕府御用市場の役目を勤めていたことが大きな要因である。正徳四年(1714)幕府は多町問屋に青物御用を命じた為に永富町の問屋の大半も多町市場に併合され問屋総数は九四軒になり亨保10年(1725)本白銀町に御納屋役所(青物役所)を設立したとある。また一方では、幕府が正徳四年(1714)に竪大工町に青物役所を設立して幕府御用としたという説もある。市場は多町周辺の連雀町、佐柄木町、須田町新石町へと拡大していき、神田多町市場神田青物市場、神田市場などと呼ばれるが、その中心は多町二丁目であった。 関東大震災後の昭和3年、神田市場は秋葉原へ移転し相対取り引きの形は終わり現在の競り売りの取り引きとなった。その後、市場は現在の大田区東海に移転した。
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