千代田区・神田公園地区連合町会のサイトです。

多町二丁目町会
たちょうにちょうめ

多町の歴史


徳川家康は、慶長八年(1603)に荒涼たる武蔵国・江戸に幕府を開いた。
幕府は、この年に神田、日本橋、京橋の町割りを決め、江戸の町づくりを始める。
慶長期(1596〜1615)に起立した町を江戸古町といい神田に限ると22カ町が成立している。
最も古い町は三河町、鎌倉町で慶長十年(1605)の起立。
その次が慶長十一年(1606)に起立した「たちょう」で神田では三番目にできた歴史ある江戸最古町のひとつである。
現在の町名表記は「多町」であるが、町の起立時は「田町」であった。
「田町」は田を埋め立ててできた町という意味の名と言われるが定かではない。



神田青物市場 (風俗画報)

神田多町市場


多町市場時代の商家の風情を残す「松本家」

神田青物市場は別名、多町市場とも言われた。
 明暦大火(1657)の前には、青物問屋の数は八一軒にも増えたという。大火後に連雀町、佐柄木町の問屋は多町へ合併し多町と永富町の問屋が商いを続けたが多町の問屋集団が次第に盛況となり神田多町市場と呼ばれるようになった。起立時の多町の範囲(一丁目、二丁目)は厳密ではないが、おおよそ現在の多町二丁目全体の範囲である。現在の一八通りの北側(靖国通り側)が市場の二丁目。南側(神田駅側)が一丁目であった。多町一、二丁目の起立時の江戸古町の形は昭和8年の住居表示変更まで約330年続いた。 町名が「田町」から「多町」へいつ頃変わったのかは定かではないが、多町市場に住む人や出入りする人が多くなり、また流通する品物や物資が多くなった事など、町の繁栄とともに「多町」と呼ばれるようになったのではないかと言われている。 
 江戸市中の市場の中でも多町を中心とする神田市場が群を抜いて発展したのは徳川家御用達、江戸幕府御用市場の役目を勤めていたことが大きな要因である。正徳四年(1714)幕府は多町問屋に青物御用を命じた為に永富町の問屋の大半も多町市場に併合され問屋総数は九四軒になり亨保10年(1725)本白銀町に御納屋役所(青物役所)を設立したとある。また一方では、幕府が正徳四年(1714)に竪大工町に青物役所を設立して幕府御用としたという説もある。市場は多町周辺の連雀町、佐柄木町、須田町新石町へと拡大していき、神田多町市場神田青物市場、神田市場などと呼ばれるが、その中心は多町二丁目であった。
 関東大震災後の昭和3年、神田市場は秋葉原へ移転し相対取り引きの形は終わり現在の競り売りの取り引きとなった。その後、市場は現在の大田区東海に移転した。

多町と祭礼《 粋な気負いの「神田っ子」の神田祭 》


 多町の氏神さまは、神田明神である。明神さまの氏子の中でも神田市場と日本橋魚河岸は圧倒的な財力を誇った町であり、特に神田市場は「神田っ子」の意識が強く「粋」な気負いで「見栄」を張り、それが如実に表現されたのが『神田祭』であった。江戸時代の神田祭において本社神輿に供奉する各町三六本の山車とその附け祭り。多町一丁目は18番、二丁目は19番の番付で、一丁目は『稲穂に蝶』の山車、二丁目は『鐘馗』の山車が有名であった。特に神田市場の多町二丁目の『鐘馗』山車は名工「原舟月」作で、山車中の王と言われ、現代に至っても語り種である。
 また明治19年には明神さまの地主神の牛頭天王三社のひとつ、一の宮を「持ち」としていた南伝馬町が山王さまの氏子となったため神田青物市場の「持ち」に変わり、名称も江戸神社・江戸天王祭となった。いま、神田祭の主役扱いの市場の大神輿は、本来は「素戔鳴命」を祀る江戸神社の御本社神輿なのであり、かつては「江戸天王祭」を盛大に挙行した神田市場が発祥の地なのである。

神田多町宵宮の図―吟月画


「稲穂に蝶」山車 昭和期の納札交換札 旧多町一丁目

「鐘馗」の山車 昭和期の納札交換札 旧多町二丁目

多町二丁目の祭礼の宵宮の様子が描かれている。多町に煌々と輝く神酒所飾りは、中央に神田大明神の大幟が二本はためくが高すぎて頂上は夜空の闇に溶けている。その奥のお仮屋には市場の大神輿(江戸神社御本社)が納まりその右には巨大な「鐘馗」人形を乗せた江戸型山車がさらに巨大な山車小屋に納まっている。左はじの提灯飾りも現代では見たこともないスケールの大きさである。贅を尽くしたこの豪華絢爛な神酒所飾りは神田市場の多町二丁目ならではのものであろう。

 上部へ