千代田区・神田公園地区連合町会のサイトです。

千代田区体育協会にて聖火リレー中継所でのお役目に従事
  熊井 實 氏(錦町一丁目町会)

当時千代田区の体育協会に所属しており、聖火リレーの神田橋中継所でのお役目に従事されていた熊井實さん(現錦町一丁目町会顧問)に当時の写真を見せていただき、お話を伺いました。


≪中継所でのお役目について≫

 当時錦町一丁目・二丁目・三丁目で一緒に「錦町地区ラジオ体操会(千代田区ラジオ体操連盟の下部組織)」という会を作っていて、ラジオ体操を通して地域コミュニティの役割をしていたんですよ。その会へ千代田区体育協会から聖火リレーの中継所の運営(設営や接待等)をするように依頼があって、神田橋交差点のそばにあった写真製版業の黎明社さんの前の広く空いていた所に神田橋中継所を設置して、聖火リレーのお手伝いをしたわけです。
 中継所とは聖火ランナーの交代をする所で、走ってくるランナーが持っている聖火の火を次のランナーが持つトーチへ移し替えます。神田橋では水道橋から来るランナーを迎え、神田橋から都庁まで走るランナーを送り出しました。この時、ランナーの人たちは一列に並んで火の移し替えをしていましたね。近所の人たちもずいぶん見に来ていたと思います。
 私は写真を撮ったり、「あれやれ、これやれ」と小間使いという感じで、中継所の仕切りは町会の人が中心になっていましたね。当時区議会議員の菅沼さんや錦町三丁目の薬屋の中山さんたちが体育協会との折衝をしていました。で、中継所だから他の体育協会の方々などたくさん人が来るわけで、若手の自分たちがお茶を入れたりしていました。
 (聖火ランナーの写真を見ながら)今見ると意外と煙だらけですね。今ドラマなんかの放送を見てずいぶん煙が出ているなと思っていたら、自分の写真を見てもずいぶん煙が出ていた(笑)。でもこんなに人がいっぱい、日の丸を持って、こんなに賑やかだったんだね。当時の広報紙には正走(1名)と副走(2名)だけが載ってるんだけど、随走で小川町にある温恭堂の藤川恭子ちゃんが走ってるんですね。今はお店のご主人をやられているのかな、僕が知っている人は藤川さんくらいだね。

Q.熊井さん自身はどんなお気持ちで聖火ランナーを迎えましたか?
 「やってくれ」と頼まれたからには事故の無いように終わらせようという気持ちが一番でしたね。「事故無くやってくれ」って散々言われてたしね。で、終わった後は事故無く取り次いだ一種の安ど感がありましたね。まぁ後で「よかったよかった」て言ってどっか行って飲んだんじゃないかな(笑)。



<参考資料1>聖火リレーのコース(昭和39年9月20日発行の区のお知らせより)
図の中央より少し上に「黎明社前 PM1.06」の記載あり。
神田橋を通るルートは第3コースとなっているため、10月7日に聖火ランナーが走ったことが分かります。


<参考資料2>聖火リレーのランナー(昭和39年6月5日発行の区のお知らせより)
聖火は1区間につき、正走者1名、副走者2名および随走者男女10名ずつの計23名で
編成されたリレー隊により運ばれました。

≪オリンピックを迎えるにあたって≫

 この辺りは高速道路は出来るし、新幹線は通るしっていう形で、今と同じようにあっちこっちで工事をしていたね。周りがみんなオリンピック景気に沸いてたっていうのかな。今と多少似てるけど、もっと勢いがあったかもね。オリンピックをやらない方がいいよという人はあんまり多くなかったと思う。
 でも工事はギリギリまでやってたね。オリンピックの開会式が10月10日だったけど、東海道新幹線の開通は10月1日だったし、羽田までの高速道路が通ったのも開会式が近くなってからだった。高速道路の時は日本橋の上にさらに橋がかかっちゃったって冗談を言ったもんだよ。町中の上空を道路が通ることになったんだけど、「便利になる方が良い」という意見の方が多かったのかな、あまり反対の意見を聞くことはなかったね。
 多分だけど、国としても町としても「やらなきゃいけない」という使命感の方が大きかったのかもね。昭和15年にオリンピックをできなかった悔しさもあっただろうし、戦後の清算のような感覚で「日本はこんなに良くなったんだ」って見せたいような気持ちもあったんじゃないかな。戦後の復興もある程度進んできて、国民も自信を取り戻してきたところにオリンピックの開催だからね、「本当の意味での復興」なのかな。バブルじゃないけど、なんとなしに町中がウキウキしていたね。
 で、開会式の日からお天気も良くてね。前の日までは天気が悪かったんだけど、当日は本当に抜けるような青空になったんだよね。それだけでも「日本すごいな」って思ったね。そしてオリンピックを経験して当時僕たちが感じたのは「日本ていうのはやっぱりすごいよな。やれば出来るんだよな」ってこと。オリンピックみたいなイベントを企画したらちゃんとやり遂げるだけの力を持ってるんだってことを世界に示せたような感覚かな。こういう感覚が高度経済成長に火をつけたような気もするよね。


≪競技への期待について≫

 競技については、復興を実感するうきうき感とはまた違ったうきうき感があったね。柔道も強かったし、レスリング、体操、重量挙げも良い結果が出るんじゃないかっていう期待があったよね。そして実際、自国開催で満足できるような結果だったんじゃないかな。でも柔道の無差別級の神永選手が負けたのは驚きましたね。神永さんは当時世界的にも強いって評判だったんだけど、ヘーシンクさんっていうでっかい選手と決勝で当たってね、押さえ込まれて動けなかった。

Q.柔道は武道館での開催でしたが、千代田区体育協会の関わりはありましたか?
 全日本の柔道協会の方が中心になってやられていたので、個別の競技についてはあまり関わってはいないね。その他の競技も同じような感じだったと思うけど、それぞれの協会に所属していてお手伝いに行った人は何人かいるんですね。鰻屋の神田川の神田さんはサブトラックでスターターのピストルを撃っていたようです。区の陸上大会でもスターターをお願いしていたし、国の免状も持っていたんでしょうね。それから林さんという方で、中学校の先生から教育委員会へ行った方。体育協会のバレーボールの会長まで務めた方なんですが、直接大会の運営に携わったみたいです。

Q.日本代表の選手は都心の人が多かったですか?それとも地方?
 地方の方が多かったんじゃないかな。千代田区から出た選手はいたかなぁ。いれば広報紙とか体協だよりに載るはずだからいなかったのかな。

Q.当時人気の選手は?
 みんなが熱狂していたのは女子のバレーボールチームね。これは人気がありましたね。東洋の魔女。これがきっかけでママさんバレーボールが流行り始めたんですよ。ソビエトとの決勝戦の視聴率がすごい良かった。たしかこのオリンピックの時にカラーテレビが売れたんだよね。価格は高かったけどね(笑)。みんなテレビにかじりついて見てたんじゃないかな。

Q.外国人観光客は?
 それほどお見えになったって感じはなかったね。まだ世界中で海外旅行が手軽じゃなかったんだよ。だから日本へ来た外国の方たちはほとんどが選手だったんだろうね。今度のオリンピックみたいに何千万人も数を計算するっていうことはなかったけど、羽田から選手たちを確実に送り届けるために道路だけはきちっと作ったんだろうね。


≪2020年東京大会とスポーツの普及について≫

 前から東京でもう1回やるっていう話はあったけど、招致に手を挙げたときには東北の震災もあったし「もう少し待ってからの方がいいかな」って感覚はあったよね。でも開催が決定したからにはやるよりしょうがないんだよね。この辺が日本人の国民性なのかな。オリンピックの開催に対するうきうき感も前回は戦後の復興っていう大きな勢いがあったけど、今回はアスリート達への期待っていう方が大きい感じがするね。
 ただ、アスリートたちのスポーツレベルが上がり過ぎることで「スポーツは見るものだ」ってみんなが思っちゃわないか心配しちゃうね。市民スポーツをやる人が減っちゃって、日常的に体を動かす楽しさを知っている人が減っちゃうと、本当の意味でのスポーツ大国からは遠くなっちゃうかもしれないよね。
 今はスポーツ科学が発展してて子どもの頃からエリート教育が出来るけど、その反面落ちこぼれじゃないけど「おれ向いてないな」って思う子がスポーツから離れちゃったりしてさ、国民のみんなの体力や健康の役に立たないシステムになっちゃうと困るなと思うんだよね。プロスポーツは見ていて楽しいけど、地道に・日常的に出来るようにスポーツが普及していくといいなって思うね。だからスポーツの楽しさを教えられる良い指導者をたくさん育てて、子どもたちにスポーツの良さを伝えて、またその子どもたちが大人になってスポーツの楽しさを教える側に回るような仕組みがうまくかみ合っていくといいね。


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