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| 【 司 一 町 会 】 |
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司町交差点から外堀通りを挟み鎌倉橋方向へ伸びる司一町会の中程には
神田駅へと続く『神田駅西口商店街』の入口がある。 |


| 上の写真は昭和10年(1935)当町会、神田司町一丁目町会(現 司一町会)創立時に神田明神で撮られたものです。前列中央の洋装の方が初代町会長山田寿二氏で、当時40代であったと聞いています。以降の、戦前の記録はほとんど残っていません。戦後の町会の廃止、日米講和条約締結後、昭和28年に町会が復活し以来7名の町会長をもって町会を運営してきました。またその内4名が神田公園地区連合町会の連合町会長経験者です。 |

この写真は平成14年(2002)戦後の町会復活から、50周年記念の時の模様です。冒頭の写真に写っている人を「これ親父だよ」と確認できた方が何人かいらっしゃいました。
また、先年町会の山車を修理した処、太鼓をしまう箱の内側に、合併の前年昭和9年に「皇太子殿下御生誕記念」、「神田明神社殿新築」記念に、山車を皆川町が新調したと書いてあるのを見つけて、2年に1度、箱から太鼓を出していたのにだれも気付かなかったとは、皆で驚いたのを記憶してります。 |
このように歴史と伝統のある町会を、しっかりと守っていきたいと。思います
 
| 千代田区町名由来板 【神田司町一丁目】 |
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ここは「神田司町一丁目」と呼ばれ、江戸時代には商人や職人の家が立ち並んでいた町でした。安政3年(1856)の地図を見ると、三河町や皆川町、蝋燭町と言った町があります。このうち「三河町」は、天正18年(1590)徳川家康入府の時、一緒に来た三河 (現在の愛知県)の武士の住んだ土地で、慶長年間(1596〜1615)この武士達が下谷の組屋敷に移ったあとにできた町です。「皆川町」は、江戸初期には皆川山城守広照の屋敷があったといわれます。寛永のころ(1624〜1644)から豊後府内藩松平家の屋敷に、貞享四年(16879)からは陸奥福島藩堀田家の屋敷地になっています。ここが町屋になったのは元禄10年(1697)ごろで、町名は皆川山城守にちなんで名付けられたといわれています。「蝋燭町」は慶長十七年(1612)に成立した古い町で、寛永の頃能楽師の幸若太夫の拝領地であったところが含まれてできました。町名はこの辺りに蝋燭造りの職人が住んでいたことに由来しています。
江戸中期以降は、武家屋敷がなく職人と商人の町として栄えて来ました。時代を経てもそれは変わりなく呉服関係、印刷、製本など、職人たちが多く住み、とくに建築関係では、町内の職人だけで家が一軒建てられたと言われています。また商人も大店ではなく、生活に必要な(八百屋、魚屋)などが多く、人情味豊かな町でした。
明治に入ると、東京全体の町割の刷新が行われ、この界隈も、明治7年(1873)までに、三河町二丁目、皆川町、蝋燭町、旭町に再編されました。さらに関東大震災後、これらをまとめて新しい町をつくる事が決まり、昭和10年(1935)に4つの町が合併し「司町一丁目」が誕生しました。
司町の名前は神田神社の平田盛胤宮司の命名によるもので、「司」は「者の頭領なれば、未来永劫栄ゆること疑いなし」という意味を持つことから名付けられました。昭和22年(1947)神田区と麹町区が合併して千代田区が成立したときに「神田司町一丁目」となり、さらに昭和41年(1966)に内神田一丁目と、内神田二丁目となり現在に至っています。
町名は「内神田」になりましたが、住民組織である町会では「司」の名前を引き継ぎ「司一町会」として存続しています。今ではオフィスビルが多くなりましたが、人情味豊かなとても楽しい町会であることに変わりありません。 |
| 三宿稲荷神社の由来 |
三宿稲荷神社は当町会の氏神様として知られ、
江戸時代から町内にあった神社が戦災で焼失し、昭和41年に神田神社の境内に社殿が再建されました。
町会では毎年10月の吉日に例大祭を行ない神田神社の宮司により
町内安全、家内安全、商売繁昌を祈願しております。 |
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