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昭和10年に「三河町二丁目、皆川町、蝋燭町、旭町の一部」などを併せて「司町一丁目」とした。「三河町」は天正18年(1590)家康入府の時、一緒に来た下級武士の住んだ土地で、慶長年間(1596〜1615)この者たちが本郷、下谷の組屋敷に移ったあとが三河町と呼ばれた。三河町の人夫は、人夫中最も幅が利き昔から名高く各大名の人夫は、ほとんどこの地の請負宿に命じていたという。「蝋燭町」は寛永の頃(1624〜44)幸若太夫の受領地となり天和2年(1682)の火災後、市店を設けたところで町名はこの辺りに蝋燭製造業者が住んでいたことに由来している。「皆川町」は慶長8年(1603)に下野皆川(都賀)藩城主皆川山城守広照の屋敷であり、寛永17年(1640)に入府した松平下総守、元禄10年(1697)頃からは下総佐倉藩堀田相模守の屋敷地になっている。町家になったのは宝永年間(1704〜11)で町名の由来は皆川山城守にちなんで名付けられたといわれる。 |

| 【 司 一 町 会 】 |
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司町交差点から外堀通りを挟み鎌倉橋方向へ伸びる司一町会の中程には
神田駅へと続く『神田駅西口商店街』の入口がある。 |
ここは「神田司町一丁目」と呼ばれ、江戸時代には商人や職人の家が立ち並んでいた町でした。安政3年(1856)の地図を見ると、三河町や皆川町、蝋燭町と言った町があります。このうち「三河町」は、天正18年(1590)徳川家康入府の時、一緒に来た三河 (現在の愛知県)の武士の住んだ土地で、慶長年間(1596〜1615)この武士達が下谷の組屋敷に移ったあとにできた町です。「皆川町」は、江戸初期には皆川山城守広照の屋敷があったといわれます。寛永のころ(1624〜1644)から豊後府内藩松平家の屋敷に、貞享四年(16879)からは陸奥福島藩堀田家の屋敷地になっています。ここが町屋になったのは元禄10年(1697)ごろで、町名は皆川山城守にちなんで名付けられたといわれています。「蝋燭町」は慶長十七年(1612)に成立した古い町で、寛永の頃能楽師の幸若太夫の拝領地であったところが含まれてできました。町名はこの辺りに蝋燭造りの職人が住んでいたことに由来しています。
江戸中期以降は、武家屋敷がなく職人と商人の町として栄えて来ました。時代を経てもそれは変わりなく呉服関係、印刷、製本など、職人たちが多く住み、とくに建築関係では、町内の職人だけで家が一軒建てられたと言われています。また商人も大店ではなく、生活に必要な(八百屋、魚屋)などが多く、人情味豊かな町でした。
明治に入ると、東京全体の町割の刷新が行われ、この界隈も、明治7年(1873)までに、三河町二丁目、皆川町、蝋燭町、旭町に再編されました。さらに関東大震災後、これらをまとめて新しい町をつくる事が決まり、昭和10年(1935)に4つの町が合併し「司町一丁目」が誕生しました。
司町の名前は神田神社の平田盛胤宮司の命名によるもので、「司」は「者の頭領なれば、未来永劫栄ゆること疑いなし」という意味を持つことから名付けられました。昭和22年(1947)神田区と麹町区が合併して千代田区が成立したときに「神田司町一丁目」となり、さらに昭和41年(1966)に内神田一丁目と、内神田二丁目となり現在に至っています。
町名は「内神田」になりましたが、住民組織である町会では「司」の名前を引き継ぎ「司一町会」として存続しています。今ではオフィスビルが多くなりましたが、人情味豊かなとても楽しい町会であることに変わりありません。
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| 千代田区町名由来板 【神田司町一丁目】 |
 
| 三宿稲荷神社の由来 |
三宿稲荷神社は当町会の氏神様として知られ、
江戸時代から町内にあった神社が戦災で焼失し、昭和41年に神田神社の境内に社殿が再建されました。
町会では毎年10月の吉日に例大祭を行ない神田神社の宮司により
町内安全、家内安全、商売繁昌を祈願しております。 |
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