千代田区・神田公園地区連合町会のサイトです。

多町一丁目町会
たちょういっちょうめ

江戸時代


 当町会は江戸時代に遡りますと「神田堅大工町」とよばれ、大工職・左官職・屋根屋等の職人が多く住む町であったという。また江戸名物と言われた「纏屋治郎兵衛」の店があり、江戸でただ一軒の纏屋であったという。町火消しの旗印たる「纏」はいずれもこの店で造ったものであり、「いろは」四十七組はもとより、他の地方の分までも一手に手掛け、その名は広く知れ渡っていたという。
 現在の多町一丁目町会の成り立ちはといいますと、大正2年ごろの記録によれば、すでに睦会の名で親睦をはかっていたことが記載されています。会長に杉本吾助氏の名が見られます。大正11年堅大工町町会発足、町会長に唐沢喜三七氏、弘田浅次郎氏、伊藤藤次氏。大正12年関東大震災により全町焼失してしまいました。
 この間、大正8.3.1国鉄中央線の東京駅続伸に伴い、神田駅が造られ、大正14.11.1には東北線も開通し、現在のSR東京メトロが昭和6.11.21には現在の三越前駅まで続伸しその中間駅となりました。
 昭和6年区画整理実施により堅大工町と新石町の一部が合併して多町一丁目町会が発足しました。
 初代会長に伊藤籐冶氏、二代目会長に稲垣為冶氏が就任しました。敗戦により昭和20年町会は解散され、その後赤十字奉仕団として町会有志が運営にあたっていました。

 昭和25年講和条約締結にともなう政令解除により千代田区内で一番早く町会制を復活し、初代町会長に萩原卓氏が就任、その後、鳴海貞蔵氏、奥村嘉一氏、中野文男氏、小林清邦氏、丸山正彦氏、迫敬輔氏と代を継ぎ、現在の藤田光春会長にいたっております。

 現在、ウィキペディアを見ると「都心としては珍しく物価が安い。周辺も含めて中通には一軒家も散見され、かつては下町の住宅地だったことがわかる。また、サラリーマンの街として知名度が高く、コストパフォーマンスの高い居酒屋の集積は例を見ない程で、新橋周辺と同様に各地より飲みに来る客も多い。錦糸町や上野といったかつてからの歓楽街で、暴力団の力が強い地域を避けて当駅周辺に出店する店もある。」と紹介されています。

 立地から小規模な雑居ビルが多く飲食店、各種店舗、事務所、住宅が混然と同居した街ですが、東京都庁の新宿移転に始まり、お台場、品川周辺へのビジネス街の移転、在住する店舗経営者の高齢化、後継者不足等により廃業が相次ぎ、コミュニティー活動等に関心を持たない各種飲食店の増加が目立ちます。

 これからこの街の、町会の伝統を、どう守り、再構築していくのか、新しい人々の参加も得て、皆で模索していかなければならないと考えています。

大柳稲荷神社



関東大震災後、東京が復興した大正末期に稲荷神社が多町一丁目4番地(内神田三丁目13-7)に建立されました。先の大戦末期に空襲で焼失してしまいました。 

昭和25年、工作機械、工具商を営んでおられた筒井賢次郎氏が、購入した8番地(内神田三丁目22番)の土地の一部に稲荷神社を再建しましたが、その後事情により同地を売却することになり、同じ8番地の住人 初代辻本恵一(本名菊代)氏が昭和28年8月に購入した上で、その一部の土地を永久に稲荷とするために町会に売却、神社は辻本氏が宮大工 杉山金七氏に依頼し建立したうえで町会に寄贈しました。

平成15年税制上などの理由から土地は神田明神に寄贈されました。建立したときに植樹した柳の木が大木になり樹齢30年、昭和58年まで聳え立って文字通りの大柳稲荷神社でした。残念ですが今は柳の木はありませんが、町会の守り神として、毎年初午祭がおこなわれるなど大切に維持されています。

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