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町会ガイド

小川北二








看板 小川町北二町会の江戸から昭和

旧幕時代は山城の国、淀の城主稲葉丹後守の小川町中屋敷であった。
丹後守は三代将軍家光の乳母春日局の後裔である。

明治維新後は、この地に商家町民が移り住み町名も「小川町一番地」
(現小川町北一町会の殆どを含む。)と長い間名称されていたが、
震災後の昭和期の区画整理完成後に小川町二丁目と改称された。

町内に祀られている孝徳稲荷神社は旧幕時代は、
稲葉家の守り神として当時は鍛冶屋稲荷と称し、
代々五穀豊穣、武運長久を祈願された由緒ある社であり、
現在は小川町北部全町会の氏神さまとなっている。

※写真のユニークな芸術的な看板は、秋山裕史氏作の「ジャックと豆の木」





幸徳稲荷神社の由来
幸徳稲荷神社は、旧幕時代山城の国、淀の城主(現在京都府伏見区淀町十万二千石)稲葉丹後守(三代将軍徳川家光の乳人春日の局の後裔)の江戸小川丁中家敷内に祀られてあったもので、当時は鍛冶屋稲荷と称し、代々五穀豊穣武軍長久を祈願された由緒ある社と伝えられる。

明治維新後、この地に商家や町民が移り住み、町名も小川町一番地となった頃、伏見稲荷神社より霊を勧進した。爾来町内の守護神として祀られ、近隣氏子有志によって新しく社殿をが建立された。

また、毎年5月14日、15日の両日に修祓式を行い、神楽を奏し祭典を施行した。昭和21年小川町北部町会が解散され、現在の4つの町会に分離した時、古老総代が幸徳稲荷神社奉信会を結成(氏子500世帯)。町会相互の連結親睦を一層崇敬を深めつつ現在に至っている。特に大東亜戦争にも社殿は戦災をまぬがれ、戦後の町の復興再建や、町会発足の基となって地域住民をを勇気づけたという。

幸徳稲荷



平成15年12月13日 小川町北二町会「幸徳稲荷神社」前
幸徳稲荷 幸徳稲荷
幸徳稲荷神社前で、町の由来と神社の謂れを説明する町会長とお汁粉とお茶を接待する婦人部。





稲川楼
稲川楼の歴史

明治2年創業。爾来平成4年に店を閉じるまで、実に123年ものあいだ営業を続けた、地域にとてもなじみの深い銭湯だ。

そもそも稲川楼は、明治維新で武士階級が無くなったとき、分け与えられた屋敷の敷地の一部を元手に、佐宗家八代目の十一郎古制(ひさのり)が開いた銭湯である。佐宗家は京都の淀にいた稲葉佐渡守正成の末裔の家臣で、江戸中屋敷に詰めていた。稲葉家は江戸に上屋敷(築地)、中屋敷、下屋敷(青山)を持つ大名で、中屋敷は現在の神田小川町にあった。ちなみに正成は「春日の局」(お福)の夫で、お福が三代将軍・家光の乳母になった時に離別しているが、後に重く用いられた大名である。

当時、士族が手掛ける商売として「銭湯」は異例のことだったらしいが、やはり士族の出だった古制の母親は、この思い切った息子の転身に積極的に協力した。他の町の湯屋に出掛けて行き、腰紐を解いて寸法を測り、稲川楼の建設では先頭に立って大工に指図したという。

「稲川楼」の名は、稲葉家の「稲」と中屋敷があった神田小川町の「川」をとった。また、当時の湯屋には珍しい「楼」という文字は、徳川時代庶民にとっては禁字となっていて使えなかったが、維新直後でもあり、士族からの転身であることを示す、いわば胸を張って「稲川楼」と名づけたといわれる。一方、「楼」の字には「高い建物」の意味もあり、稲川楼自体が天井の高い吹き抜けのつくりであって、下町の平屋を見下ろすような建物でもあったからだともいう。

明治、大正、昭和、平成と4つの時代に亘り、町と共に在り続けた神田の誇る名湯である。



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