明治2年創業。爾来平成4年に店を閉じるまで、実に123年ものあいだ営業を続けた、地域にとてもなじみの深い銭湯だ。
そもそも稲川楼は、明治維新で武士階級が無くなったとき、分け与えられた屋敷の敷地の一部を元手に、佐宗家八代目の十一郎古制(ひさのり)が開いた銭湯である。佐宗家は京都の淀にいた稲葉佐渡守正成の末裔の家臣で、江戸中屋敷に詰めていた。稲葉家は江戸に上屋敷(築地)、中屋敷、下屋敷(青山)を持つ大名で、中屋敷は現在の神田小川町にあった。ちなみに正成は「春日の局」(お福)の夫で、お福が三代将軍・家光の乳母になった時に離別しているが、後に重く用いられた大名である。
当時、士族が手掛ける商売として「銭湯」は異例のことだったらしいが、やはり士族の出だった古制の母親は、この思い切った息子の転身に積極的に協力した。他の町の湯屋に出掛けて行き、腰紐を解いて寸法を測り、稲川楼の建設では先頭に立って大工に指図したという。
「稲川楼」の名は、稲葉家の「稲」と中屋敷があった神田小川町の「川」をとった。また、当時の湯屋には珍しい「楼」という文字は、徳川時代庶民にとっては禁字となっていて使えなかったが、維新直後でもあり、士族からの転身であることを示す、いわば胸を張って「稲川楼」と名づけたといわれる。一方、「楼」の字には「高い建物」の意味もあり、稲川楼自体が天井の高い吹き抜けのつくりであって、下町の平屋を見下ろすような建物でもあったからだともいう。
明治、大正、昭和、平成と4つの時代に亘り、町と共に在り続けた神田の誇る名湯である。
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