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町会ガイド

小川三南


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小川町三丁目南部町会
町会の設立は昭和28年11月で大震災後の区画整理までは「表神保町」と呼ばれていた地域である。弘化年間の絵図によると、この辺りは戸田長門守と内藤駿河守の屋敷が隣り合っており、戸田長門守の横の道を南東に向かうと「護持院ヶ原二番火除地」に突き当たる。

町内には通称『五十稲荷神社』がある。正式には「栄寿稲荷神社」といい、その沿革は正徳年間(1711〜16)山城国(京都府)伏見稲荷の分霊を祀ったもので、安産の稲荷としてその名は非常に高かった。その後、その土地が戸田長門守の屋敷となったが、戸田家ではそのまま祀っており明治維新後邸宅が取り払われて町家となったが「栄寿稲荷神社」はそのまま残された。



小川町三丁目南部町会の靖国通りに面する商店会『福興会』の全景


小川町三丁目南部町会
小川町三丁目南部町会はお茶の水から明大通りを駿河台下方面に下り、交差点を直進し靖国通りと千代田通りに挟まれた一画です。交通アクセスは6本の地下鉄、丸の内線淡路町、千代田線小川町、半蔵門線神保町、東西線竹橋、三田線、新宿線神保町各駅から徒歩5から10分位です。靖国通りの商店街を福興会と云い日本のスポーツ店ビッグ3と言われるミズノ、ミナミ、ビクトリアをはじめスキーのフソウスポーツ、東京一古い田村帽子店、ネオン広告の老舗ウララネオン、眼鏡専門店タニ、額縁の地球堂等の専門店が軒を並べています。

一歩通りを入ると老舗、新規の味自慢の飲食店が来店をお待ちしており、おそらく日本で初めてのアフガニスタン料理のカブールもあります。特に下町らしいのは碁会所のお茶の水談話室GO、麻雀屋たちばな、やまもと、そして散策に疲れたらみつば治療院でいまはやりのフットマッサージはいかがですか?又歯科医院は武内、野村、平山、保富と4院もあり、皮膚科は松下医院で充実しています。買い物に、食事に、楽しさ溢れ、ヤングもオールドも安心できる町、帰るときにはちょいっと五十稲荷神社をお参りしてさわやかな気分でお帰りください。



お茶の水談話室「GO」
みつば治療院




五十稲荷神社
五十稲荷神社は正式社名を栄寿稲荷神社といい、御祭神に、倉稲魂命(うがのみたまのみこと。食物を司る保食神)を祀る。

社伝によると徳川時代既にこの地に鎮座し、京都伏見稲荷神社より御霊を奉戴、安産守護神として厚く崇敬された。正徳年間(1711〜16)戸田長門守の屋敷となったが、戸田家ではこの地の鎮守として奉祀し、領地足利市にある「稲荷大神」(現雪輪稲荷神社)をも合祀して「栄寿稲荷大明神」となった。

戸田家は足利領で五・十の日に織り物市を開く慣わしがあり、江戸邸に於てもその繁栄を祈願する為に月次の祭事を五・十の日に執り行い、諸人の参詣を許した。毎月五の日と十の日を縁日としたので五十稲荷の名が生まれた。安産を願う妊婦が近県からも集まり、毎月の縁日、特に夏の夜の混雑ぶりは今の新宿にも匹敵するといわれ、『風俗画報増刊東京名所図絵 神田区之部』(明治32年)の中に、当時隣にあった映画館『南明館』とともに描かれている。

漫才の内海桂子師匠が、幼い頃に神社近くの蕎麦屋「更科」に丁稚奉公していた時に、『五十様の縁日』を楽しみにしていたという。






森さん(明治43年生)が語る関東大震災
地震が起きたときは学校にいる時間で、地下の下足場をうろうろしていたら、先生に「そんなところにいないで早く逃げろ」と言われて、運動靴のまま靖国神社に逃げました。九段の坂の上から神保町の方を見ると、火事で大変な煙でした。神社の境内で、同じく避難してきた西神田の叔母に出会うことができ、荷馬車に乗せられて避難しました。

揺れもようやく収まった頃、神田の様子を見に行きました。我が家に着いてみると、家は丸焼け。商売が瀬戸物屋でしたが、全部壊れてかけらになった瀬戸物が元の倍くらいの嵩になっていました。そこに、両親が竹橋の近衛連隊に避難していることを知らせる札があり、一週間ぶりに両親に会うことができたのです。配給は今の一橋中学の所でやっていました。幸い倉庫に藁で包んで置いてあった瀬戸物は無事だったので、両親が瓦礫の上にそれらを並べたところ、配給米をもらいにきた人が買っていってくれました。それでようやく生活に必要なお金が手に入ったのです。夏のことで、何より水がないと困りますが、その当時、小川町にあった「おおときわ」という料理屋さんに滝があったので、その水を使わせてもらいました。

震災でも戦争でも何回も怖い目に遭いましたが、地震の時など何も持たずに身一つで安全なところに逃げて、無一文になっても身体が無事なら、その後一生懸命働けばどうにかできるということを、身をもって体験しました。



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