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町会ガイド

錦一

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 太田姫稲荷
太田姫稲荷神社祭礼、活躍された役員、婦人部、担ぎ手の方々





錦町一丁目婦人部神田橋交差点

錦町一丁目婦人部電大前


 太田姫稲荷神社祭礼2

熊井町会長宅前

遠藤婦人部長宅前

宮入前女神輿

神田博善、藤井さん

 錦町1丁目町会21年度総会
総会後の懇親会の写真です、神田五番組小頭渡辺氏も出席して頂きました

永田副会長と婦人部の皆様

上機嫌お酒も上喜元窪田さん佐藤さん

町会長も日進の木村さんもほろ酔い

婦人部の皆様
 錦町1丁目町会21年度総会
懇親会の続き

青年部長、中藤さんと電機大学の皆様

博善、藤井さん羽深さん

町会長、婦人部長遠藤さん日進の木村さん

五番組小頭の中締め
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昔日この辺りは武家屋敷が多く、一色という旗本屋敷が二軒あったことから併せて二色小路というようになった。明治維新後に「二色」を改めたとも。護持院の庭にいた錦のように光る虫を生神といた弁財天堂に因んで錦町としたともいわれる。

護持院は元禄元年(1688)、時の五代将軍綱吉の信仰保護のもとに一ツ橋から錦町にかけて建立された大伽藍である。綱吉と生母桂昌院が深く帰依していた湯島知足院の僧、隆光のため、神田橋外のこの地に五万坪を持って知足院を移し、筑波山護持院元禄寺と改称して建立された。将軍母子の庇護のもとで隆盛をきわめたが、亨保2年(1717)正月の大火で堂宇が灰燼に帰すと、その後は再建されず同寺を大塚にある護国寺の域内に移し観音堂を「護国寺」と称し本坊を「護持院」と改称させ、あとに残った寺地は「護持院ケ原」と呼ばれる火除地となり一番原から四番原まであった。

※御存じ○に十の字「島津製作所」東京本社は警察通りに面しています。



                



【熊井實町会長が語る錦町一丁目今昔】
江戸時代の何枚かの古地図を見ますと、錦町の辺りは武家屋敷や、度重なる大火の火除地が多くあります。第二次大戦(大東亜戦争)中に防空壕を掘った時、地下1メートル位まで10何層もの焼け瓦などを含んだ焼跡の残土の層が重なっていて、随分と火事があったんだなあと実感しました。江戸末期になると武家屋敷の中にぽつぽつと町人が住み始め、下町の誕生の兆しが見えてきたそうです。

錦町の町名の由来については、一色家の屋敷が二軒あったので二色が転じて錦の町の説や、京都の錦小路にあやかりたいとの願望から名付けたなど諸説ありますが、定かではありません。明治に入り侍制度が廃止されると、下級武士を中心に商店や職人が増え、町も江戸の町から東京の町へと変って行きます。神田橋周辺にあった荷揚場の運送業者が大勢いた名残りで宿から旅館業が、お侍様の頭脳集団からは出版・印刷・製本等の業者が数多く生まれていったようです。

大正デモクラシーの時代には、東京の中心地として人口が飛躍的に増加し、商店や遊技場が増え、さらに職人さんも大勢住む下町錦町が形成されていきます。大正12年の関東大震災で全滅した町も、昭和3年から4年にかけて区画整理事業が完成、ほぼ現在と同じ区画が出来、一時離れていた人が戻ったり、新しい人が越してきたり、以前にも増して賑やかな町になったそうです。出版・製本・印刷業、ハイカラな洋服屋、ハイヤーや円タクのガレージ、そして日常生活に欠かせない米屋・八百屋・魚屋・酒屋・炭屋・菓子屋に混って、洋食屋・喫茶店・カフエー等が店を構え、銭湯が2軒も成りたつ人口の多い町になって行きました。

珍らしいものでは、政友会の溜り場として、時の政治家とその秘書・書生(戦後政界をリードした、大野伴睦氏・小沢佐重喜氏などがおられた)等が集い会合をした松本亭。柔道界では有名な津田柔道々場。菊池寛氏がよく遊びに来た麻雀・ビリヤードがあった福原ビル。区役所・警察署の前ということで代書屋が軒を連ねていたことを思い出します。また、東京の中心という地の利を生かして、種々の団体が集まって来ました。創価学会がこの地で生声を上げたり、天理教東京本部が置かれたり、キリスト教団の本部事務所が設けられたり、諸団体の本部や事務所が数多く置かれるようになり、一層賑やかになりました。

その後第二次大戦で、我が町も再び焼土と化しましたが、戦争が終るやいち早く復興し、以前の勢いを取り戻しました。やがてバブル時代になってビル化が進み、逆に人口減少から昔の様な下町風情が薄れ、少し寂しくなりましたが、残った人々が中心となって、錦町一丁目の氏神様の太田姫稲荷神社の祭礼など、様々な行事を通じて、住む人と働きに来る人が共に心ふれあう、明るい町作りに励んでいる昨今です。




                



神田橋から望む本郷通りの錦一のビル街
この先は神田川の聖橋。手前、神田橋の向こうは大手町。
本郷通りに面し、警察通りを挟む錦町一丁目町会
大通り沿いはビル街だが、住民は下町の心意気。



【神田錦町 松本亭と松本フミ】
明治7年当時、全国各地では民権運動(国会開設上願等)が盛り上がり、土佐の立志社・板垣退助が、副島種臣、後藤象次郎、江藤新平等の各地の自由主義団体・政治結社に呼び掛けて全国組織、愛国社を設立(明治8年2月・本部東京)。松本志げの夫、松本秀発は上野彰義隊出身で九段に住み、当時の不平士族らに共鳴し、愛国社の設立に参加した。愛国社の規約に「大政の由って出る所と天下の形成事情とを察し、一般人民の利益を謀る等のことを協議討論し、および何事によらず各社に報知することを努むべし」とあり、愛国社に参加した各県各社は、毎月2、3回は期日を定めて東京に社員を出張させた。そこで彼らが宿泊や集会をする場が必要となり、松本志げは夫秀発にかわって、明治8年に錦町一丁目四番地(現東京電機大学6号館の場所)にあった手頃な旅館を買い、彼ら志士たちの宿泊及び集会所にあてたのであった。

一方松本フミは、明治15年12月11日に松本志げの長女として誕生する。明治30年頃の田中正造の足尾銅山鉱毒事件の闘争までは、松本亭はいかなる事件にもまきこまれなかったが、明治36年8月に松本志げが死亡、その時フミは23歳になっていた。以後明治・大正・昭和の三代に亘り、フミと松本亭は時代の荒波に呑み込まれていく。
(参考文献『神田錦町 松本亭』川合貞吉著 1977學藝書林)


松本亭に関与した主な人物
田中正造 奥宮健之 幸徳秋水 管野スガ 石川三四郎 中江兆民 頭山満 犬養毅 宮崎滔天 内田良平 古島一雄 緒方竹虎 中野正剛 大野伴睦 孫文 岩田愛之助 ラス・ビバリー・ボース 栗田確也 岩波茂雄 三木武吉 鳩山一郎 大杉栄 木村武雄 遠山景光 犬養健 尾崎行雄 吉田茂

松本亭が関与、又は、関連した事件・運動
自由民権運動 足尾銅山鉱毒直訴事件 普選運動 大逆事件 桂内閣打倒運動 浪人会 辛亥革命 ラス・ビバリー・ボース亡命事件 阿倍政務局長襲撃事件 大隈首相暗殺未遂事件 学校改革運動(明治大学) 石工組合乱闘事件(死者8名) 運送業者鉄道省襲撃事件 五・一五事件 中野正剛自決



1980.8.17
昭和54年の町会懇親会では、
こんなに大勢の老若男女が町会のイベントに参加。


ひとこま
平成13年5月の町会の総会には
石川区長もご出席。
神田の年の瀬は「火の用心」
寒いけど、夜警詰所にて。


                






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