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町会ガイド

美土代


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神輿
「内神田美土代町会」由来
江戸時代は武家地と町人地で、勘定奉行宅等旗本御家人の武家屋敷と三河町三丁目裏町、同四丁目裏町、四軒町などの町があった。元禄の頃(1688〜)には柳沢吉保の屋敷もあったが、享保の頃(1716〜)以降は細かく分割された。
明治維新後、勘定奉行宅は一時薩摩島津家の屋敷になったが明治2年(1869)麻布永坂町、同東今井町、神田竹町、元鮫か橋北横町の代地となり、町名を新三河町とした。
明治5年(1872)町名を美土代町一丁目に改め、武家地を同二・四丁目、元々の町人地を同三丁目とした。
町名は「神田」を訓読みすると「みとしろ」にあるため「美土代町」としたと言われている。昭和10年(1935)区画整理により、一円を「美土代町」とした。

※写真は「神田祭」で活躍する美土代町の大神輿



集合
平成21年 神田祭 役員 
婦人部
平成21年 神田祭 婦人部




札
「60代の人の証言」
美土代町会の数ある建物の中で、第二次大戦後も残っていたのは
島津製作所のビル(内神田1−14−5現在は建替えられてる)だった。
戦時中は米軍の空襲に備え、この建物に高射砲が設置されていた。
敗戦後、進駐軍が神田警察通りから出世不動通りまでの町会の大半を接収し、
しかも鉄柵でおおってしまったため、通行人の往来には大変不自由をした。
その間進駐軍は、この島津製作所のビルで実務をとっていた。
また、この敷地内には大きなもみの木があり、クリスマスになると沢山の
イルミネーションが飾られて、町会の風物になっていたという。
昭和29年に接収が解除され、土地がそれぞれの地権者に戻ってからは
ビルが建てられ、当時の面影は残っていない。
木札




豊 島 屋
豊島屋
今から400年前の慶長元年(1596)、神田鎌倉河岸で豊島屋十右衛門が酒屋兼一杯飲み屋の商いを始めた。ひな祭りの時期に売出す白酒は大変な人気で、この様子は「江戸名所図絵」にも描かれている。明治17年に美土代町2丁目に移転してますます栄え、大正時代には「金婚」を醸造し人気を博した。昭和の東京大空襲で店舗及び帳簿を焼失したが、現在では猿楽町を中心に、日本全国に知られる大きな問屋のひとつである。



高 砂 屋
高砂屋
一膳飯屋の高砂屋は慶安事件(1651)の頃、現内神田1-3-1高砂ビルの場所で開業した。幕末の頃、近藤勇がお玉ケ池の千葉道場の帰りによく寄ったそうである。
昭和になると大蔵省の庁舎が近くに建てられ、外食券食堂として大勢の人が訪れた。吉田茂、池田勇人、岸信介、佐藤栄作ら当時の大蔵官僚が訪れていたのは有名な話である。



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